芥箱

日々を腹いせに晒す。

 

なんか夜が更けていくにつれ昨夜の説教が耳に甦ってくる。

 

 

 

最近の若者はスマホをするためだけに大きくなっている。

スマホは電話するものであって見詰めているものではない

その考えに賛同できないのならここは私の家なので、もう来なくて良い。

 

 

立派なお言葉である。

その通りなのかもしれないとも思う。

だがその反面、私は思うのである。

 

最近の若者でいちゃいけないのかと。

どう転んだって私は最近の若者で、ゆとり世代ど真ん中で、若輩者である。

世間知らず故に失礼を働くこともあるだろう。

これだからゆとりは、と影で言われているのかもしれない。

 

でも、事実なのである。

私は最近の若者で、ゆとり世代の人間である。

その時代にただ産まれてきただけである。

 

昨日の上司は、

そんな無意義で無価値な人生を送って何が楽しいの?

と言いたげな口振りで私に舌剣を奮ったのであるが、

私にはツマラン人生送るならさっさと死んじゃえ。と言われているように感じた。

 

大袈裟と言われればそうなのかもしれない。

でも私は最近の若者でゆとり世代の人間である。

自他共に認めるおとうふメンタルである。

勿論、泥酔していた上司もそこまで思って口にしたものではないかもしれない。

少なくとも、私がその職場に勤めていた3年間は本当にお世話になった頭の上がらない上司であり、恩師である。それは間違いない。

 

だけど、そんな恩師だからこそ、その口から出る言葉には私にとってはそれなりに重みを伴う。

その恩師にもう来なくて良いとまで言われれば凹みまくりなのである。

人生生き方すべてを否定された気分である。

 

 

でも少なくとも、その上司に胸を張って言えることはある。

 

心配してくれなくても私は十分幸せである。

生きていて詰まらないと思うことは多祥なりともあれど、毎日人と携わって、泣き笑い、怒り憂い生きている。

 

それは私の倍以上も生きて時代の流れを見てきた大人から見れば私は人生を棒に振っているだけのように見えるのかもしれないが、

私は毎日を私らしく生きているだけである。

 

最近の若者、ゆとり世代

この二つのレッテルを恥じながら隠しながらこそこそひっそりと生きていかなくてはならないのだろうか。

 

ワガママで自己中かもしれないが、私は嫌だ。

スマホは大切だ。

ポケモンGOもやる。

大人から見れば未熟で常識も無いのかもしれない。

何処にでもいる最近の子、なのかもしれない。

 

 

でもそれが何だ。

日々喜怒哀楽しながらしっかり生きてるじゃないか。

生きてる、ってことが重要じゃないのか。

 

 

 

 

つまるところ、かなり今、へこんでいる。

豆腐で言えばおぼろ豆腐である。

 

 

 

amazarashiの曲聴いて泣く。

 

 

明日も仕事だ。